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山下整骨院・山下鍼灸院
体性-自律神経系 生活科学研究所
 

Institute of  Somatic Autonomic Nervous System Life Science

院長 山下和彦 (博士: 生活科学)

大阪公立大学 都市健康・スポーツ研究センター 客員准教授

体育学学士、教育学修士、柔道整復師、鍼灸師、健康運動指導士

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        柔道整復師とのご縁

 右;千住小町と謳われた祖母

 左;100歳(H29) の若き叔母

   名倉と言えば骨接ぎの代名詞として、「千住の名倉」は全国に知られた「ほねつぎ」です。

 名倉家は、名倉重直(1668年から1712年)が足立区千住に移り住み、その4代後の名倉弥次兵衛直賢(1750年から1828年)が骨接ぎを始めました。

 これは、日本で初めての接骨院と言われています。有名になったのは、7代目の弥一の頃からと言われ、最盛期の大正時代には1日の患者が300人から500人おり、夜が明けると旧道は骨折や脱臼の患者が戸板や籠の行列で埋まったと言われています。

 

   祖母(野村志ん)は実家が東京足立区千住で、若い頃は千住小町と言われていたそうです。写真、向かって右が祖母で、左は100歳(H29当時)になる我が母の姉の若き頃の写真です。

 のちに名倉堂接骨院・柳屋では野村志んさんが湿布づくりを手伝い、母は受付で銭函を前に支払いの手伝いをしていた時があったと聞いて驚きました。骨接ぎと言えば名倉接骨院を知らない者はいない有名な接骨院でしたから、自分の祖母と母が働いていたとは不思議なご縁を感じます。

 

 祖母と母がいた柳屋も他の屋号と一緒で住まいとしていた人もたそうで、骨折患者の腕や足を滑車のつけたおもりで牽引をしていると、患者の寝がえりで「キィキィキィキィキィキィ~と、音がして怖かったよ」と母が学生だった頃の話を聞きました。

 また、小児麻痺の子供が来た時の話です。先生が「お前はこんな軽いお手玉も投げられないのか?ほら、先生にぶつけてみろ。こんなことも出来ないのか?ほら、やってみろ!」と子供に言うと、子供は泣きながらお手玉を先生にぶつけたそうです。「なんだ、お前、やれば出来るじゃないか!手が動くじゃないか!」・・・、時代を感じます。

 

 一方「どこが痛い?また夫婦喧嘩か。しょうがねぇ~なぁ~。」と先生が言うと、どっと周囲に笑いが出たそうです。長屋のように仕切りの無い待合室とも診察室ともいえる広い畳敷きのところで、みんなの声が聞こえる中、施術をしていたそうです。和気あいあいの東京下町の風情を感じます。地域の皆さんが家族のような、良くも悪くも飾り気のないお付き合いのある地域医療の時代を感じます。

 

 先日、93歳 (H17年)になる母の兄、私の叔父 に会いに行って名倉堂接骨院について母から聞いていた話のよく解らなかったことを伺ってきましたが、新たな発見もありましたので記録することにしました。

 戦後、名倉接骨院は新宅の金町屋・万屋・成田屋・大原屋と本宅の柳屋の屋号の付いた宿屋がありました。当時の千住名倉接骨院には名倉省三 (のちに慶應義塾大学卒業、整形外科医)がおりましたがすこぶる破天荒。そこで省三のお目付け役として教育係の野村志んを呼ぶことになったそうです。

 事の初めは、祖母(志ん)の弟 (大塚柳次りゅうじ)が名倉接骨院で書生をしていたとのこと。省三の父は、野村志んが渋沢栄一宅の奥様付きとして行儀見習いをした経歴があり、千住小町と謳われた風貌を見込んで、柳屋の管理や施術のお手伝いをすることになったそうです。

 

 この大塚柳次さんという私の大叔父は省三さんの影響でお酒が大好きになり大層な呑兵衛になってしまったそうです。しかしながら腕の方は折り紙つきという腕前で、近所でも一寸名の知れた接骨医?だったそうで”鳥の足の骨が折れた! 犬が怪我した!”というと近所から人以外の動物の骨折も整復していたそうです。また欲無しの人で「酒でもあれば金は要らねぇよ!」という生活だったと聞いています。

 

血は争えないといいますが・・・。

 

 私が柔道整復師の免許を取得し、整骨院を開設してから色々と聞いてみると母の兄(野村敬三;私の叔父)から様々なエピソードが出てきましたが、話を聞けば聞くほど不思議な「結びつき・ご縁」を感じました。

 

 

 大塚志ん (後の野村志ん;祖母)は大塚芳蔵・松本美弥の長女として生まれました。祖母は学校で学ぶことがあまり得意でなかったそうです。母親の美弥の父が日本最初の銀行を設立させた第一銀行頭取の渋沢栄一邸宅の庭師として出入りしていたことから、15,6歳の頃に行儀見習いとしてお仕えしたそうです。しばらくして”奥様付き”となり、渋沢栄一氏の奥様専門のお世話係りとなったそうです。

 奥様が日本橋の呉服屋、三越などに買い物に出かけるというと、祖母はお付として一緒に出かけ、奥様が財布も持たずに ”これ、これ、これ!” と、買い物をしていた後ろに付いていたそうです。

 渋沢栄一氏は自宅での食事の際、象牙の箸で先端は金であったこと、腕時計は毎日違うものを身に付けていたと話しておりました。渋沢栄一氏が亡くなった時には、邸宅にトラックで何台ものお供物が届けられ、

「お志んちゃん、どうしよう」

と、途方に暮れていた奥様に

「いちいち降ろしていたらいたら大変ですから、このまま施設に送りましょう。」

と、とっさの判断に奥様も同意され、トラックをそのまま施設に行ってもらい、奥様は胸を撫で下ろしたそうです。表情から察するに、機転が利く決断力と行動力から奥様からは大層、気に入られていたそうです。

 その後、神田錦町(学士会館付近)の酒屋・味噌屋に嫁ぎましたが、嫁ぎ先の兄弟が隣で印刷屋を営んでいました。

 

 大正12年 (1923) 9月1日午前11時58分,32秒に起こった関東大震災では地震発生後1時間では延焼地域はごくわずかだったようですが、強風にあおられ、本所、深川、浅草、下谷、神田、日本橋、京橋、芝と広がり、火災の沈下は9月3日午前10時ころと言われ、犠牲者は10万人を超えたともいわれています。

 そんな中、お志んさんは店の缶詰を店前のドブに投げ入れ、荷車に戸板をのせ、酒樽、みそ、コメ、布団を積んで、逃げたそうです。鎮火した後は、ドブから缶詰を拾い上げ、酒をふるまい、コメは握り飯にして多くの人に分けたそうです。大層皆さんには喜ばれたそうです。

 お志んさんは酒を一滴も飲めなかったそうですが夫の潔(我が祖父)も下戸で、組合の集会には酒が飲めないことを理由に、お志んさんが夫の代わりに出席していたそうですが、次第に酒が強くなっていったそうです。

 写真の表情から人生が伺えます。

野村志ん

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たくさんの患者様からお喜びの声をうかがっております。

心に残った患者様

病院で解らなかった症状も改善されました。

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大阪市立大学 都市健康・スポーツ研究センター渡辺一志教授。

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